遼金西夏史研究会 - Society for Liao, Jin and Xi-xia Studies

 

第17回 遼金西夏史研究会大会 報告要旨

荊木美行(皇學館大学)

日本人の「靺鞨国」観をめぐって

 隋唐代に「靺鞨」の名をもって呼ばれる部族が存在したことは、『隋書』『旧唐書』『新唐書』などにみえている。これら正史の東夷伝・北狄伝には、それぞれ「即古粛慎氏也」「靺鞨蓋粛慎之地」「黒水靺鞨居粛慎地」とあり、三書の編者が、旧満洲地方に居住していた靺鞨諸部を、かつての粛慎の地に興った部族とみなしていたことがうかがえる。こうした靺鞨については、当時日本でも知られていたらしく、『続日本紀』養老四年(七二〇)正月丙子条には渡嶋津軽津司がの風俗観察のために派遣されたことがみえる。

 ただ、国内の文献における「靺鞨(国)」の用例はきわめて少ない。右の『続日本紀』の記事以外では、天平宝字六年(七六二)の多賀城碑に「去界三千里」とあるほか、公式令集解、遠方殊俗条所引の「穴記」や『類聚国史』巻一九三、延暦十五年(七九四)四月二十七日条などに「靺鞨」の用例を見出すのみで、ほかには、奈良・平安時代の人名に「靺鞨」が散見する程度である。そのために、「靺鞨国」が具体的になにを指しているのか、よくわからない節がある。

 筆者は、(一)『続日本紀』が「渤海」「高麗」ではなく、あえて養老四年条にのみ「靺鞨国」という表記を用いていること、(二)旧満洲地方に居住する靺鞨諸勢力の分布が、八世紀後半にはいって大きく変化したこと、などを根拠に、『続紀』の「靺鞨国」については、これを鉄利靺鞨など、特定の部に限定してしまうのではなく、もっと広汎な意味での靺鞨の総称、ないしはかれらの居住地としてとらえるべきであり、多賀城碑のそれは、渤海を指すと考える。


 

 

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