遼金西夏史研究会 - Society for Liao, Jin and Xi-xia Studies

 

第17回 遼金西夏史研究会大会 報告要旨

李思斉(一橋大学大学院・言語社会研究科博士課程3)

 

遼慶陵東陵人物壁画契丹小字墨書の復元及び考釈 —東陵・聖宗説を説く—

 

 内モンゴル自治区赤峰市巴林右旗にある遼代の皇帝陵「慶陵」は、発見からすでに一世紀がすぎた。その間、聖宗、興宗、道宗の三つの皇帝陵は繰り返し盗掘されたため、それぞれの陵墓に誰が埋葬されているのか特定が困難となっていた。その後、西陵は道宗陵であると証明されたが、残る中陵と東陵については聖宗陵と興宗陵との関連付けにおいて、いまだ議論の的となっている。慶陵の三つの皇帝陵(西陵・中陵・東陵)のうち、東陵の壁画は色が鮮明に残っているので遼代史研究における恰好の資料となりうる。しかし、本分野における先達らが指摘した通り、当時でも壁画の劣化が進行し、いまに至ってはこうした情況には期待ができない。本報告は、鳥居龍蔵・田村実造らの調査資料に基づき、東陵人物壁画の傍らに書かれた契丹小字墨書の復元及び釈読作業を行ったものである。その結果、東陵の前室後半部西壁に描かれた二人の漢人の名前を『遼史』に記載された人物、崔禹称と王英秀に比定できた。この二人の人物は興宗時代に国信使として活躍していたが、『遼史』には名前が一度登場するのみである。壁画には服飾の色が鮮明に残っており、それを手がかりとして出土墓誌及び宋側の記述と照らし合わせた結果、二人が壁画に描かれた時点は興宗時代に国信使として宋側に行った時点より早い時期にあることが判明した。このことによって、東陵そのものにより、東陵の主人は聖宗であることが窺える。これは本報告の目的である。また、そのほか、墨書が入ったすべての人物壁画の契丹小字復元を試みた。契丹人はその特殊な命名の仕方によって解読が出来ているものの、歴史上人物と照らし合わせることができてなかった。今回の研究は、これまでの契丹小字墓誌解読における成果を利用し、長年未解決となっていた東陵人物壁画契丹小字墨書の解読に挑んだ。しかし、遼代官僚制度における服飾に関する問題や、漢人の契丹語習得に関する問題などの課題が残っており、今後さらなる分析と資料調査を必要としている。


 

 

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