遼金西夏史研究会 - Society for Liao, Jin and Xi-xia Studies

 

第19回 遼金西夏史研究会大会 報告要旨

山根直生〔福岡大学〕
「五代宋初、宋遼境界の一自衛集団について──定州開元寺資史料を中心に──」
 宋朝の創始からまだ間もない建隆二年(九六一)八月甲辰のこと、首都開封の西北で一体の屍が焼却された。死者の名は孫深意、河北狼山勝福院の尼であった。これに至る顛末を、『続資治通鑑長編』巻二、同年同月同日は以下のように記す。義武節度使同平章事の孫行友は鎮に在ること八年をこえていて、狼山の妖尼深意の黨は益ます盛んとなっていた。陛下(宋太祖)が即位すると、行友は不安になり、かさねて上奏し官を解いて山に帰ることを乞うたが、陛下は許さなかった。行友は懼れて軍備をととのえ、其の妻子を棄て還って山寨にこもり叛こうとした。兵馬都監の藥繼能は密かに其の事を上奏した。陛下は遣閤門副使の武懐節に騎兵を馳せさせた。鎮州・趙州の兵とあわせ、偽って辺境警備と称し、まっすぐに定州に入った。行友はこれに気づかず、詔を出してこれに示すと、一族を挙げて朝廷に帰服させた。・・・尼の深意の屍を押収し、これを都城の西北隅で焼却した。
 ここでの孫氏一族は一地方に盤踞する軍事勢力であり、「妖尼」深意はその精神的支柱として死後にまで利用される存在であった。邪教的色彩の強調される彼らの宋朝に対する屈服は、実態としてはいかなるもので、同時代の何を表現しているのか。河北定州周辺に多数残される石刻資料を活用して再考する。


 

 

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