遼金西夏史研究会 - Society for Liao, Jin and Xi-xia Studies

 

第21回 遼金西夏史研究会大会 報告要旨

「西夏の地方支配機構―監軍司と経略を中心に―」

佐藤貴保

 興慶府(中興府)に都を置いた西夏が地方に12の監軍司とよばれる機関を設置しそれを「豪右」に統治させていたことや、監軍司が地方の軍事を管轄していたことは、『宋史』夏国伝の記述を基に早くから指摘されてきた。カラホト遺跡から出土した西夏側の文献からは監軍司が地方の17か所に置かれていたこと、監軍司が軍事だけでなく裁判にも関与していたことが明らかになっている。甘粛省張掖市にある12世紀末の漢蔵合璧「黒水橋碑」の建立に関与したのは現地の漢人官僚たちであった。そして2008年以来報告者が調査を続けてきた甘粛省瓜州県楡林窟の供養人像及び供養人題記からは、特定の漢人氏族が代々瓜州・沙州(敦煌)監軍司の属官の地位にあり、さらに彼らは中央ともつながりがあったことが明らかになった。11世紀に西夏が進出してくる以前の河西回廊には漢人が多数居住していたとみられ、これら西夏側の史資料に基づけば、西夏が河西回廊に先住していた漢人勢力を在地の官僚として登用することで統治を行おうとしていたものと考えられる。

 ところで、西夏の用語集には「経略使」とよばれる官庁ないしは官職名が記載されている。西夏の法令集の条文からは「経略」の語句が多数検出され、それらの条文を読む限り、経略もまた地方統治に関わる官庁であったと考えられる。本報告では監軍司や経略に言及した西夏語文献等をもとに、地方の統治において監軍司と経略はそれぞれどのような役割を果たしていたのか、経略使にはどのような人物が任命されていたのかを検討し、西夏の朝廷が地方をどのように支配しようとしていたのか考察していきたい。


 

 

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