遼金西夏史研究会 - Society for Liao, Jin and Xi-xia Studies

 

第21回 遼金西夏史研究会大会 報告要旨

「金代の交鈔流通と大定銭の問題について」  

井上正夫

 

 金代の交鈔(紙幣)は、もともとは送金上に使用された為替文書であった。この送金のしくみ自体は、唐宋期の飛銭と同様であり、しくみの上で、文書は、片道の移動により送金を果たせば、回収された。しかし、紙幣としての交鈔は、南京で振出され、南京で銅銭の払出がなされる兌換券であって、振出地へ回帰するしくみである。当初の交鈔が片道型であるのに対して、紙幣化した交鈔が回帰型であるにもかかわらず、いずれも交鈔と呼称されるのは、回帰型が片道型からの発展形態であることを示す。南京方面から南方前線へ送付される軍需物資と、一方で、南京さらには北方へ送付される調達物資の流れがあり、それぞれの物資調達上必要となる送金が反対方向であるが故に、当初の片道型交鈔が、回帰型交鈔に発展し、さらに紙幣化したと考えるべきである。いずれにせよ、交鈔の流通化成功は、金国における「文建て」の貨幣供給量を増大させた。物価は上昇し、銅銭の鋳造は困難になるのは必定である。

 ところで、大定銭には史料上や考古学上で不可解な点が存在する。それは、①『金史』には、後に大定銭を旧銭と等価にしたとすること、②発行に先んじて北宋の大観銭を当五にしたこと、③出土銅銭の構成比において、金の北方では大定銭の占める割合が多いことである。

 これらの3点の意味を合理的に説明しようとするならば、大定銭が当初は「当五」(5倍の価値)で公定されたと考えざるをえない。つまり、新しい大定銭の発行に先行して、それと酷似している大観銭を当五で公定し、それと同じという論理で人々に大定銭を当五で強制したが、南宋との交易ではその公定価値が拒否されるために、大定銭は南方との交易機会の少ない北方への支払に回され、価値下落の後、旧銭との等価が追認されたのである。

 すなわち、大定銭に関する一見不可解なる諸現象は、交鈔流通本格化による物価上昇を背景として生じた結果だったのである。


 

 

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