遼金西夏史研究会 - Society for Liao, Jin and Xi-xia Studies

 

第14回 遼金西夏史研究会大会 報告要旨

白  玉冬 (大阪大学)
    遼西北辺部族于厥考

 13世紀前葉、モンゴルウルスに出使したフランシスコ修道院所属修道士カルピニは、かつてモンゴル高原にいた四大部族を、イェカモンゴル(大モンゴル)・スーモンゴル(Su-Mongol)・メルキト(Merkit)・メクリト(Mecrit)と記している。そのうちのスーモンゴルは、「水のモンゴル人」という意味であるが、タタルと自称するという。Su-Mongol という名は、それ以前のタタル部族の名称を受け継いだ可能性は十分ある。契丹時代、タタルの別名は「阻卜」・「臭泊室韋」である。10世紀前葉の「獸(ɕǐəu)室韋」は、地理的位置から「臭泊室韋」に比定でき、「獸」は、「臭」・「阻」と同じ音の音写と見られる。奚(Tatabï)・九姓回鶻(Toquz Oγuz)・キプチャクの下位部族名に見えるように、遊牧部族の名称において、最後の部分が氏族を意味する「氏」である用例が多く存在する。これに鑑みると、「阻卜」の「卜」は、モンゴル語の oboγ 「姓・氏族」に相当する契丹語の音写の可能性がかなり高い。すると、Su-MongolSu は「阻卜」の「阻」に由来する可能性が浮かぶ。

 他方、劉祁の《北使記》に記録されたモンゴル〜中央アジアの部族中に、磨里奚・磨可里とある。磨里奚はメルキトであるが、磨可里は《集史》の makrīt で、《元史》の滅乞里で、即ちメルキトの別名である。カルピニと劉祁は、メルキトの別名であるメクリト(Mecrit)と磨可里を、あたかも他部族のように間違えて記録したわけである。即ち、メクリト(Mecrit)は、ルブルクが記録したクリト(Crit)、即ち克烈ケレイトKereit)の誤りである。

 一方、モンゴル部に滅ぼされた近隣する部族・国は、《黒韃事略》によると、撒里達・達塔・蔑里乞がいたという。そのうち、撒里達は王国維のいう回鶻の別種ではなく、克烈部に比定すべきである。すると、上記撒里達・達塔・蔑里乞は、カルピニに記された、モンゴルを除いた、かつての四大部族中の三大部族と一致する。

 他方、契丹の北〜西北方向にいた部族は、《契丹国志》では蒙古里国・于厥国・鱉古里国・達打国と記録されている。そのうち、鱉古里国はメルキトに、達打国は克烈に比定できる。すると、《契丹国志》の于厥国は、カルピニが記録したスーモンゴルに、《黒韃事略》の達塔に、即ちタタル部に相当することになる。

 達塔は《黒韃事略》において、モンゴルの真北にいて、兀魯速の種と言われている。また松田孝一は、『集史』の記述から、タタルの一部はオノン河あたりにいたと考えている。一方の于厥は、契丹の北から西北方向トーラ河あたりまで広がっており、また『遼史』の関連記事から、阻卜の中に含まれていることが推察される。于厥は、後世のタタル部族に比定できよう。


 
 
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