遼金西夏史研究会 - Society for Liao, Jin and Xi-xia Studies

 

第14回 遼金西夏史研究会大会 報告要旨

高井 康典行 (早稲田大学)
    遼五京の呼称 ——漢語と契丹語の間——

 遼は上京臨潢府・東京遼陽府・南京析津府(幽都府)・中京大定府・西京大同府の五京を設置した。五京の呼称は上・東・南・中・西と一見すると単純に方位概念にもとづいたようにもとらえられる。ところで、中央民族大学博物館所蔵の「上国太傅都監墓誌并序」(応暦10年撰述)には契丹=上国、東丹国=東国、中原王朝=中国という概念が示されており、ここから「上国」の都=上京、「東国」の都=東京という対応関係が想定される。遼が後晋を占領した時に鎮州(現在の河北省正定市)を「中京」と改称する。この呼称を方位概念にもとづくと考えると矛盾が生じる(鎮州は当時設置されていた遼の三京のいずれよりも南に偏している)が、「中国」の都=中京という認識を想定すれば矛盾なく理解できる。また、同時代史料において析津府(幽都府)は「南京」ではなく「燕京」と表記されるケースが遼代を通じて圧倒的多数を占める。つまり「燕国」の都=燕京という認識であったと考えられる。これらのことから、京の呼称が単なる方位概念にもとづくものというより、地域概念にもとづく呼称であった(南京という呼称自体も存在するので、厳密にいえば地域概念による呼称がより好まれた)ということができる。

 以上は、あくまでも漢語史料からうかがえる現実であって、契丹語史料から見た場合は異なる様相を呈する。本報告では、漢語・契丹語に見える五京の呼称にていて検討を加え、当時の人々の五京に対する地域認識、あるいは漢語史料を契丹語史料の差異から垣間見える史料編纂に関する問題について明らかにしたい。


 
 
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