遼金西夏史研究会 - Society for Liao, Jin and Xi-xia Studies

 

第15回 遼金西夏史研究会大会 報告要旨

洪 性珉 (早稲田大学)
  遼宋増幣交渉とその歴史的意義

 興宗期の遼の政治的状況をみる際、欽哀皇后一族や耶律重元の動向を顧慮しなければならない。重熙10年(1041)には、国内的に優れる君主としてアピールしようとする興宗と、戦争を通じて財貨を得ようとする部族長との意見が合致し、宋への開戦が決められた。その際、蕭孝穆による反対が確認されるが、欽哀皇后の一族による反対は確認されない。

 遼の国書の内容を事前に入手した宋は、増幣による解決を図ると同時に万が一に対して戦争準備も整っていた。

 交渉の過程から見ると、劉六符は必ずしも領土の割譲に拘っていなかった。劉六符の背景を考えると、彼が使者として宋に赴いた際、意図的に国書の内容を宋側に漏洩した可能性もある。劉六符にとって「増幣交渉」とは、遼の戦争準備を巧みに「威嚇行動」に転換させて増幣を導くことを意味する。

 増幣直後には、劉六符によって遼の南京道地域に減税が行われ、その地域の民心にも影響を与えたと考えられる。一方、宋ではそれが遼の内部でどのような影響を齎したのかについては十分に把握することができなかった。


 
 
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