遼金西夏史研究会 - Society for Liao, Jin and Xi-xia Studies

 

第15回 遼金西夏史研究会大会 報告要旨

森本 創 (明治大学)
  西夏・金・南宋統治下の吐蕃諸族

 「吐蕃諸族」とは、吐蕃王国が7世紀〜8世紀にかけて河西に進攻した際に残留して定着した部族の末裔である。これらの部族は、唐末五代より宋初にかけて河湟地域に散在し、史料では「某族」や「某家族」と記される。その数は240余りにのぼり、有力者のもとにしだいに糾合され、部族連合政権を形成していった。

 五代・宋初、吐蕃諸族の中心は西涼府(涼州)にあり、大中祥符8年(1015)以降は西寧に基盤を置いた唃厮囉によって再統一された。唃厮囉が築いた政権は、青唐王国とも呼称される。しかし、一族の不和などから分裂状態に陥ると、北宋の経略事業によって陝西の一部に編入される。北宋が滅亡すると、地理的には西夏や金に編入され、その後、12〜13世紀の吐蕃諸族は、西夏・金・南宋という三王朝に分割され統治された。以後、吐蕃諸族を糾合する政権は現れず、つづく元・明・清の時代では、土司土官制度に取り込まれ、茶馬貿易やチベット仏教の伝播に深い関わりをみせるようになる。

 つまり、吐蕃諸族の歴史は、部族連合政権を形成した前期と、王朝の地方支配に組み込まれる後期とに分けられる。報告者は、後期の動向が固まったのは、唃厮囉政権崩壊後の西夏・金・南宋三王朝の分割統治時代であると考える。従来、12〜13世紀の吐蕃諸族の研究は、唃厮囉一族の動向の解明が中心であり、交通史や馬政史の視点から言及されることはあるものの、総体的な動向は依然として不明瞭である。本報告では、西夏・金・南宋の統治下において吐蕃諸族がどのような役割を担ったのかを明らかにすることで、12〜13世紀の吐蕃諸族の総体的な動向を素描したい。そのため、吐蕃諸族の有力者や有力部族を挙げ、三王朝のなかで在地に居留したもの、在地を離れて活動したもの、それぞれの動向を検討したい。


 
 
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